最新のコメント 324 件中 1 - 30 件

[ 上志津大塚1号墳 ] 村恵 2019年5月26日 12時27分
不思議不思議 何か面白い 昔昔何があつたのか
[ 奥鶴古墳 ] 名無しの冒険家 2019年4月16日 20時7分
径100余歩の前方後円墳で地元では「かみんこばか」・・・(神の子墓?)と呼ばれて居ます。
[ 勝瓜南原古墳群 ] 名無しの冒険家(井頭山人) 2019年3月7日 9時9分
現況の勝瓜古墳群は、ソーラーパネルの設置の為に、クヌギの林は伐採され土を掘り起こされて、古墳自体は存亡の危機に晒されている。過って、昭和20年1月5日と7日に、地元の考古研究者である佐藤行哉氏よって為された踏査調査によると、勝瓜古墳群は、方墳から前方後円墳そして円墳へと、比較的密集した土地に16基が手書きの地図に記載されている。手元の資料を見ると、長くクヌギ林の中に静かに存在していたが、それでも大正14年頃には、庭石を求める発掘盗掘が行われ、古墳の横や上方が堀荒らされた跡があると、佐藤行哉氏のノートには記録されている。当時も古墳を破壊しても玄室の石を取ろうとする、邪な連中は居たのである。この事からも、すでに破壊の跡があると思われる。 また、なぜこの鬼怒川左岸の河岸台地に多くの古墳が密集して居るのかについては、正しい根拠が不明だが、此処は西の開けた風光明媚な土地で有り、被葬者の浄土へのあこがれがこの土地を選ばせた可能性は多々ある。ところが、この河岸台地は鬼怒川の川面から25m~30mの台地であり、調べたわけではないが、年に数センチのレベルで崩れて後退している。前方後円墳の造営が6世紀だとすると、現在では約1500年の歳月が経過している。年平均3cm後退すると、当時から45mは崩れ落ちている。5cmとすると75mも後退している。事実、佐藤行哉氏の踏査時には、ある前方後円墳は縦に半分ほどが、鬼怒川の川面に崩落して居る様に見取り図には描かれており、玄室の巨石の一部は川原に転がり落ちている可能性は大であり、時間がないので調査できずにいるが、出来るだけ早い時期に調べてみる必要があろう。(井頭山人)
[ 太田長作遺跡 ] 村恵 2019年2月2日 5時59分
田畑ばかり
[ 小原山興法寺跡 ] mm3610 2018年12月15日 21時28分
五輪塔を確認しました。(2016.9.10と2017.03.19) 2017年3月の当日、お寺の本堂の周りには残雪がありました。(この年の雪の量は多かったようです)
[ 甘木山9号墳 ] 某歴史好き 2018年12月4日 9時20分
甘木山9号古墳は、7号古墳と同様に、状態がよく複室構造がきちんと残っているようです
[ 甘木山7号墳 ] 某歴史好き 2018年12月4日 9時19分
保存状態が比較的よく、複室構造になっているのもわかる状態だそうです。
[ 甘木山5号墳 ] 某歴史好き 2018年12月4日 9時16分
甘木山5号古墳は、かろうじて石材が2つ残るのみで、かろうじて古墳とわかる程度の状態です。
[ 甘木山4号墳 ] 某歴史好き 2018年12月4日 9時2分
甘木山4号古墳は、無残に崩壊してしまっていたようですが、発掘してみると、完成に近い土器が出土したそうです。
[ 甘木山3号墳 ] 某歴史好き 2018年12月4日 9時1分
甘木山3号墳は、甘木山1号古墳のすぐ横にありますが、状態が悪く、石室の平面形態もわからないほど傷んでいます。
[ 甘木山2号墳 ] 某歴史好き 2018年12月4日 8時59分
甘木山公園内の道路の橋にあります。 甘木山1号墳のすぐ上に築かれているが、市道が1号古墳と2号古墳を分断しています。 大牟田市図書館・カルタックス『平成大牟田の発掘調査展示解説シート』「甘木山古墳」より
[ 甘木山8号墳 ] 某歴史好き 2018年12月4日 8時25分
平成大牟田の発掘調査展示解説シート「甘木山古墳群」より。甘木山6号墳墓同様、欠番で存在しない古墳だそうです。
[ 甘木山6号墳 ] 某歴史好き 2018年12月4日 8時24分
『平成大牟田の発掘調査展示解説シート』「甘木山古墳群」より。甘木山6号墳は欠番で存在しないとのこです。
[ 甘木山1号墳 ] 某歴史好き 2018年12月1日 9時5分
大牟田市の北部にある甘木山の甘木公園内に現存しています。公園内のグラウンドの周りの斜面に、ぽっかりとあいた状態で放置されている感じです。知らない人が見れば、周りを石で組まれた穴ぼこにしかみえないかもです。記録上は1号~9号までとなっていますが、6号、8号は欠番で、7基しか現存していないようです。 余談ですが、大牟田市図書館併設カルタックスの『平成大牟田の発掘調査展示解説シート』によれば、平成元年~3年の確認調査で、「公園の中にあってゴミ穴と勘違いしてる人もいるようです。そこで大事な史跡としての認識をあらためるための基礎調査として資料整備のために発掘したものです。」と書かれています。 甘木山1号墳については、古墳群のなかでもっとも南にあり、公園内グラウンドの東側の斜面にあります。もとは円墳らしく、墳丘としての高まりもすこしのこっており、古墳の石材も2段目までのこっているので、古墳群の中では、残りのよいものだそうです。
[ 羽山台遺跡 ] 某歴史好き 2018年12月1日 8時10分
大牟田市の草木丘陵の東側に位置した弥生時代の遺跡だったそうです。情況は現存せずです。 以下詳細。 大牟田市図書館併設のカルタックス(博物館)に置かれている資料「平成大牟田の発掘調査展示解説シート』によると、現在は大牟田高校の合宿所が建設されており、遺跡自体は現存していないとのことでした。 以下資料より 甕棺墓15基発掘されており、成人用のものと、小児棺(子供用の甕棺墓)がでてきたそうです。ただ、どれもが破損して泥がはいっており、遺体は子供の頭蓋骨の一部と思われる骨がでてきたのみだそうです。 出土した甕棺墓については、前述のカルタックス内に完全な形で展示されています。 平成以前のものは詳細を確認していないのですが、博物館で販売されている 『大牟田市立三池カルタ・歴史資料館収蔵品図録』によれば、遺跡全体の出土内容としては、甕棺墓64基(内支石墓1基)、土壙(木棺)墓43基の合計107基と書かれているので、現大牟田高校の合宿所の発掘分はこの一部だと思われます。
[ 田辺城跡 ] 猫田 2018年11月21日 18時54分
現地説明会が開かれます。 11月23日の午前10時〜11時。 田辺城は織田信雄の与力家臣であった木造氏の築造したとされる城。 今年度の調査で発見されたものとしては掘立柱建物の柱跡などが注目です。 色付く鈴鹿山系を仰ぐ風光明媚なロケーションです。 http://www.city.inabe.mie.jp/kyoiku/bunka/1005403.html
[ 丸山古墳 ] 名無しの冒険家 2018年11月13日 21時18分
https://www.xhimiko.com/
[ 丸山古墳 ] 名無しの冒険家 2018年11月13日 21時15分
邪馬台国・越前にある「卑弥呼の墓」です。直径約120m。
[ 高塚古墳/酒屋高塚古墳 ] 名無しの冒険家 2018年10月31日 11時57分
私は、酒屋高塚古墳の敷地内に居住している高畠(本家は高塚)と申します。本古墳は21代雄略天皇より下賜された画文体神獣鏡(全国で21面出土)が出土した古墳であり、備北地方の4000基の古墳(被葬者は兵隊?)の代表格で杖刀人と考えられています。朝鮮出兵での功績により下賜されたのではないかと考えています。いつでもご案内いたしますので、是非ご連絡ください。現在、三次市と古墳の保存について協議中です。
[ 東光寺跡 ] 某歴史好き 2018年9月1日 19時21分
原万田の国道沿いからすこしはいった住宅街の道沿いにぽつんと立っています。地図上の場所ではグーグルマップに田次郎丸居館あとと示されている場所が、この薬師堂がたっています。 寺域はわかりませんが、この東光寺を立てたとされる田次郎丸居館跡の敷地内に建っています。 薬師堂を囲むようにして、五輪塔、板碑、六地蔵塔などが並べてあります。また、お堂の内部にも変わった石碑が保存されていて興味深いです。
[ 三ノ宮古墳 ] 某歴史好き 2018年8月30日 4時32分
下井手八幡宮の境内に存在する、荒尾市内で唯一の前方後円墳だそうです。 神社本殿のすぐ横にあり、全長60m、後円部直径23mだそうで、ちなみに方形の部分の下底部?は掘削されて削れており、微妙にかたちがつかみにくかったです。ちなみに古墳のそばに「武装石人」が残っており、覆屋のなかに保存されています。
[ 横島城跡 ] 某歴史好き 2018年8月27日 21時30分
鎌倉時代~戦国時代の間、野原荘(現 荒尾市、長洲町、玉名市)を支配していた小代氏が、1410年(応永十七年)に幕府から伊倉荘、伊倉港を与えられたという記録があるので、この記録を信じるならば、横島城を領有していてもおかしくないかな?という想像は働きます。(あくまで私見です)
[ 横島城跡 ] 某歴史好き 2018年8月27日 21時22分
公園内にあった石碑にかかれた説明です。 「昔、横島が海中の孤島であったころ(およそ500~600年前)小岱(代)一族の武将で、通称「新九郎」という水軍がここに本拠を構え、伊倉・高瀬の両港に出入りする商船から案内料や通行料をとっていたという。従わぬ船からは強制的に金品を没収したので、人々からは「海賊」として恐れられていた。この本拠から坂を下り船を出す海辺まで百五十間の坂道を今でも「新九郎坂」と呼ぶ。
[ 横島城跡 ] 某歴史好き 2018年8月27日 21時17分
かなり前になりますが、偶然ここを訪問しました。平坦な干拓地が広がる子に地域に、ぽつんと小高い小山が存在する感じで、いかにもこの周辺が当時は海であり、ここが島だったことが想像できる場所でした。 いまは、独特のかたちの展望台がある公園になっています。城跡としての遺構を確認する時間がなかったのですが、横島城跡の石碑が建てられていることから、ここが当時小島のなかに存在した砦?のようなかんじだったんじゃないかと想像が膨らみます。
[ 古屋敷A窯跡 ] 某歴史好き 2018年8月27日 10時37分
この付近に存在したとされる奈良~平安時代ごろの窯あとだそうですが、付近にそういった遺構は残されておらず、宅地となっていました。遺跡として残されているのは、ここから南東に少し離れたところにある、緑ヶ丘4号公園ないに残された「皮篭田(かわごだ)B窯跡」のみで、他はすべてニュータウン建設により宅地となったようです。
[ 古屋敷B窯跡 ] 某歴史好き 2018年8月27日 10時34分
残念ながら遺構は現在残っておらず、付近を回ってみても、完全に住宅地となっていました。 この付近(緑ヶ丘ニュータウン)の宅地建設にともない、発掘調査がおこなわれ、窯跡と灰原の遺構が確認されたようです。古屋敷A窯跡も存在した様ですが、こちらも同じように宅地になったのだと思われます。
[ 皮篭田A窯跡 ] 某歴史好き 2018年8月27日 10時25分
資料によれば、奈良時代後期~平安時代初頭(8世紀後葉~9世紀前葉)に使用された窯だろうと推定。遺構は半地下式の登り窯跡と灰原(陶片などのゴミ捨て場)。窯の大きさは全長8m、幅0.93~1.8m、床傾斜角度37度だったとのこと。焼かれたものは須恵器で、器種は甕、壺、横瓶、盖(椀、坏)、椀、杯、高坏、皿、盤などの日常生活品主。特殊なものは、つぼの脚部とおもわれる獣脚が出土したということでした。
[ 皮篭田A窯跡 ] 某歴史好き 2018年8月27日 10時13分
皮篭田(かわごだ)B遺跡が公園内に保存されていたので、こちらもあるのかな?資料上の地点を散策してみましたが、こちらは残っていないようでした。資料によると、A窯跡が存在した場所は、ポイントの地点よりやや南側にあったようです。現在は住宅地になり遺構は残っていないとのことです。どうやら、この付近緑ヶ丘ニュータウンの宅地建設にともない行われた発掘調査だったようで、付近にもほかに皮篭田B窯跡、古屋敷A,B窯跡があったようですが、現在は皮篭田B窯跡を残して、ほかはなくなってしまったようです。
[ 高岡城跡・高岡古墳 ] 某歴史好き 2018年8月26日 6時22分
城跡は城跡でも、朝鮮式山城なので、かなり古い時代の城跡だったようです。ただ、周囲でその遺構をを見つけるのは難しいみたいです。ただ、道路沿いにある納骨堂のような建物の脇に、「高岡城跡」の説明版とお墓があります。
[ 中土館跡 ] 某歴史好き 2018年8月26日 6時3分
参考までに。2014年の同町の考古学調査資料 熊本県文化財調査報告第 294 集『古閑野田遺跡』のなかにある、岱明町の「古閑野田遺跡周辺遺跡一覧表」の中で、中土館跡「土塁、濠跡、中世貝塚、土器類」と記載されていますので、もしかすると上記した盛り上がりと雑木林がそうなのかもしれません。