最新のコメント 40 件中 1 - 30 件
- [ 雪野山古墳 ] さすらいの遺跡オヤジ 2010年7月18日 13時44分
- 標高308.82m。雪野山山頂に前方部を北に向けて築かれている。たどり着くまでに大汗かきました。固い基盤岩を整形していることと、後世の改変があり、均整のとれた墳形ではない。
- [ 圓満寺古墳 ] さすらいの遺跡オヤジ 2010年7月16日 21時53分
- 35年ぶりに訪れました。石室はやや埋まっているものの、当時とあまり変わらず、少しうれしかった。 状態は良くないが、実物の竪穴式石室が見学できる、数少ない古墳だと思います。 出土遺物:鏡3・直刀3・剣2・鑓1・鉃鏃5・鉃斧2・不明尖頭鉄器1
- [ 金城跡/宮の前城跡/金城々跡 ] さすらいの考古学者 2010年7月15日 15時6分
- 周辺地を散策しましたが、地図上のポイント周辺が梨の果樹園や家畜小屋になっており、どうも私有地くさいので、金社八幡宮のそばの道から推定地を眺めるにとどめて退散。草木生い茂っており、あの辺りなんだろうなぁ・・・って程度に推測することしかできませんでした。 多分小代氏関連の城の一つなんじゃないかと勝手に想像してます。 余談ですが、城址推定地近くに金社八幡宮とあるのが、昔は金城八幡宮と呼ばれていたようなので、間違いはないと思います。
- [ 平内槻の木遺跡 ] 名無しの冒険家 2010年6月30日 2時6分
- 私は現在70歳、中学時代にこの辺りの畑で石器の表面採集を楽しんだ者です。当時の思い出で分厚い土管様の遺物をみつけ、理解も出来ずにあの辺りのがけ下へ捨てた記憶が有ります。その後の理解で、あれは製鉄か製銅の炉に風を送る「羽口」ではなかったかと想像しています。ここでの製鉄等の遺跡はあるでしょうか。だれか教えてください。
- [ 月田蒙斉塾跡 ] さすらいの考古学者 2010年6月27日 11時37分
- 月田蒙斉についてはググった程度でしか知りませんが、荒尾の月田氏というのは、現在荒尾市野原にある野原八幡宮の宮司を代々務めている家系です。 そういう意味では昔から続いている古い家系になるのだと思います。
- [ 姫御前古墳 ] さすらいの考古学者 2010年6月12日 18時58分
- 30年前、小学校の行事で行きました。 当時は見晴らしが良い場所で中に入った記憶もあります。 図書館で場所を調べ、今回行ってみたんですけどがっかり。。。 周囲は草木が生い茂り遺跡はロープが張られ 「きけん 立ち入り禁止」の表示。 とても残念です。
- [ 柿の木台場薩軍墓地/荻迫柿木台場薩軍基地 ] 名無しの冒険家 2010年6月7日 13時10分
- 荻迫柿木台場跡には、田原坂の美少年のモデルの一人、塚野孝之丞(つかの こうのじょう)の墓が有ります。孝之丞は、明治十年の西南戦争で戦死<享年16歳 薩軍第二大隊七番小隊>戦死日は、旧暦で二月二十八日と刻んで有ります。
- [ 三輪・餅田遺跡 ] 名無しの歴史好き 2010年3月25日 22時2分
- 2010年3月上旬に製作途中と見られる碧玉が発見され、下旬には加工道具と砥石が発見された。
- [ 多久和城跡 ] 戦国好き 2010年2月8日 13時49分
- 尼子清貞の頃に築城されたと思われる。後に尼子家老中高尾氏などが在城するが毛利氏によって落城。山頂を本丸とし、馬蹄形に郭を配置している。土塁や堀切など保存状態は良好 案内板あり
- [ 海老山城跡 ] 戦国好き 2010年2月8日 8時38分
- 海老山(標高70M)に新田右馬頭守によって築城された。永正七年(1520年)に佐太神社神領を侵したとして、蘆山城主朝山越前守綱忠との争いで城は落城している。堀切を東側に二カ所、本丸には土塁も見られる。また帯郭も本丸周辺に配置しており保存状態も良好です
- [ 岡上砦跡 ] 戦国好き 2010年2月6日 19時22分
- 神原茶臼山城の出城として下笠源四郎によって築城された。山頂の削平地から南西にかけて複数の郭を連ねている。
- [ 西長江要害山城跡 ] 戦国好き 2010年2月5日 23時28分
- 鰐尾山城の出城として国司神社背後に大廻清長によって築城されている。主郭より東西南北に(馬場跡を含む)郭を配置し堀切や竪堀も見られる。
- [ 宇屋谷城跡 ] 戦国好き 2010年2月5日 23時9分
- 鷹の巣城の東側山麓に築かれた館跡と思われる。郭は神代神社境内よりやや東にL字型に配置しており周囲に土塁や堀切を設けている。その他、法篋印塔片が三基あり
- [ 栗栖城跡 ] 戦国好き 2010年2月5日 22時46分
- (1335年)に古志氏が浄土寺山城より居を移築。主郭より北東に1郭から4郭、北側尾根にも郭を設けている。また西側には堀切があり久奈子神社のあたりは妻子の住居跡とされる。
- [ 三ッ子山城跡/三子山城跡 ] 戦国好き 2010年2月4日 12時41分
- 三子山城は嘉吉三年(1443)に岡本出雲守信貞によって築かれている。郭の広さは広く石積も多く見られる。登りはじめには石垣があり戦国時代末期(毛利氏改修)のものと思われます。
- [ 満岡館跡 ] 名無しの歴史好き 2010年1月9日 21時49分
- 城主は満岡武蔵守藤原宗久。別名、恒安館(後藤館)。元は長崎武雄領主であった後藤貴明の館。後藤貴明(1534-1583)の死後、満岡宗久が移り住んだ。宗久は館のそばに龍顔寺(曹洞宗)を建立し、貴明を弔った。宗久の子孫は満岡や光岡を名乗り、現在に続いている。
- [ 小薮洞穴遺跡 ] いわきのおじさん 2009年12月28日 9時40分
- 子供の頃の記憶で岩間側から小浜海岸へ抜けた様に思います。 長さはおおよそ400m程度。最近再確認に行きました。写真のように明かりが見えるので 今も、小浜海岸へ抜けられると思います。
- [ 千足古墳/造山古墳付5号墳 ] 名無しの歴史好き 2009年12月21日 20時7分
- '09/12/04調査中で排水中の石室内部の写真です。
- [ 黒宮大塚/黒宮大塚弥生墳丘墓 ] 名無しの歴史好き 2009年12月21日 19時45分
- 現地の説明板には「北向き前方後方墳」と記載されています。
- [ 本屋敷古墳群 ] 素数ゼミ 2009年11月16日 0時49分
- 1980年代に法政大学が発掘しており、報告書もある墳長45mの前方後方墳を主体として陪塚として方墳及び円墳1基ずつある。しかし、調査範囲を広げればもっとあるかもしれない。1号墳は宅地開発で1部破壊されているが、河岸段丘崖上に作られている点では上渋佐古墳群(南相馬市)の桜井古墳(前方後方墳)の立地に類似する。
- [ 小原寺屋敷所在製鉄(仮称) ] とある彫刻家 2009年3月21日 23時26分
- 炉跡と認識できるものは見つかりませんでした。残念。 ですが鉄滓は写真の場所にごろごろ転がっています。 この場所に集中的に散財していることから製鉄炉が周囲にあった事が想像できます。
- [ 月田蒙斉塾跡 ] さすらいの考古学者 2009年1月6日 18時15分
- 埼玉県に住む月田ですが、私も探しています。
- [ 坊主山古墳 ] vaioテクノロジー 2008年12月20日 21時44分
- 2008年12月17日水曜日の中国新聞のWebサイトに『坊主山遺跡で1800年前の墓が見つかった』との記事が掲載されていました。 隣接する柳遺跡では集落跡が見つかったとのことです。 2008年12月20日土曜日の13:00~15:00に現地説明会が開催されました。
- [ 月田蒙斉塾跡 ] さすらいの考古学者 2008年12月11日 18時58分
- 蒙斎の家系図が欲しいのですが。
- [ 亀山古墳 ] さすらいの考古学者 2008年11月15日 23時32分
- 弥生時代後期と思われる粕屋平野最大の円墳。箱型石棺としては日本最大級である。
- [ 黄幡1号古墓 ] vaioテクノロジー 2008年11月15日 15時50分
- この遺跡からは木製の樋が水路として使われていた状態で見つかっています(以下、2003年7月24日木曜日中国新聞朝刊掲載記事より抜粋)。 木樋の長さは約5m、幅が約50㎝、厚さが約5㎝で、大木を縦に割り、中をくりぬいていました。また、周囲を家屋の廃材とみられる角材の杭や板材で固定されていました。山のある南東から北西に向き、約5.5°の傾斜があり、農業用水や排水路として使っていたとされています。 また木樋の周辺からは弥生中期の土器が大量に出土しています。ミニチュア土器や分銅形土製品などの祭祀遺物も発見され、稲作がらみの祭事をした痕跡を示しています。
- [ 中野鳥屋ケ丸城跡 ] 戦国好き 2008年11月2日 22時21分
- 付近には案内板はない。成覚寺本堂まで行き、裏手から主郭までの道のりです。複数あるとされる郭は確認出来ない
- [ 神西城跡/高倉城 ] 戦国好き 2008年10月31日 19時48分
- 正式名は龍王竹生城と呼び(1223年)高倉山101メートルに小野高通が築城して以後、神西氏を名乗り12代続く。主郭、小郭、堀切や土塁などが残る。保存状態は良い
- [ 二つ山城跡/二ツ山城跡 ] 戦国好き 2008年10月30日 18時30分
- 二ツ山城は(1223年)冨永祐純の子である(出羽氏)朝祐が地頭となり石見守護佐々木定綱の庇護のもとに築城した益田七尾城の次に古い山城である。(1357年)出羽実祐の頃に高橋貞光によって攻撃され本拠を移すことになるが(1392年)南北朝統一により出羽氏は領地の一部を返還され(1530年)に高橋氏が毛利元就によって滅ぼされると出羽氏は再び領地全域を与えられ毛利氏の配下となる。(1591年)に出羽元実は出雲頓原に移封となり廃城となる。保存状態は良いが下草の刈り方が雑
- [ 三内丸山遺跡 ] 名無しの冒険家 2008年9月27日 21時35分
- とにかく、遺跡の範囲が広大。隣接して近野(ちかの)遺跡、また沖館川をはさんで三内沢部遺跡もあり、この周囲の遺跡を歩くだけでもかなりハード。